【ネタバレ注意】『すずめの戸締まり』感想

こちらはCalendar for eeic (東京大学工学部電気電子・電子情報工学科) | Advent Calendar 2022 - Qiitaの14日目の記事です。

感想ブログどころかブログを書くのすら初めてで大変拙い内容ですが、アドカレ参加のために映画『すずめの戸締まり』の感想を書きました。

以下ネタバレしかありません

映画『すずめの戸締まり』の感想がメインですが、同監督作品の『君の名は。』『天気の子』および入場者特典『新海誠本』の内容に触れる部分があるので、ご覧になっていない方はご注意ください。また、本記事の内容は個人の感想に過ぎません。

suzume-tojimari-movie.jp

『すずめの戸締まり』の総評:すごく良かった

まず本作の総評ですが、とても良い映画でした。「震災」というどこまでもシリアスになるテーマを扱っているにもかかわらず重い雰囲気になり過ぎない構成は、鮮やかで美しい映像と相性が良く、鑑賞後には前向きな気持ちになることができました。

映画全体に対するこの印象は鑑賞直後から変化していませんが、鑑賞直後の私は「期待通り映像が綺麗だった」とか「何かすごく良いものを観た」とぼんやり感じていただけです。「何かすごく良かったけど、何が良かったんだろう」と考えながら歩いていたとき、近くにいた同じく本作を観たばかりのお姉様方が、本作の納得いかないところについて話していたのが聞こえました。その方々は「なぜ鈴芽だけ訛っていないのか」や「なぜ物語の序盤で鈴芽は『死ぬのは怖くない』と言っているのに、終盤で『死ぬのは怖い』に変わっているのか」ということを疑問に思っていたようでした。

その会話を聞いて「鈴芽の死に対する考え方が序盤から終盤で変わる理由」を考えたことで、「何かすごく良いものを観た」という感覚は「この映画のここが好き」という感想に変わりました。以下では鈴芽の発言が変化した理由について自分なりに考えた過程を書いていきます。

 

鈴芽が「死」を恐るようになる理由

物語の序盤から中盤で、主人公・鈴芽が「死ぬことが怖くないのか」と問われる場面が何度かあります。その一つは愛媛の廃校の戸締まりをするシーンで、このとき「死ぬのが怖くないのか」と閉じ師の青年・草太に問われた鈴芽は、「怖くない」と答えました。また、要石として常世に囚われた草太を助けるため常世に行くことを草太の祖父・羊朗に伝えたとき、羊朗に「死が怖くないのか」と言われ、鈴芽は「いつ死ぬかは運だから、怖くない」と答えます。しかし、鈴芽の故郷である岩手の後ろ戸から常世に入り要石になった草太を救出するとき、鈴芽は草太に「死ぬことは怖い」と告げています。

鈴芽の発言にこのような変化があった理由を一言で言うなら、「成長」だと思います。この「成長」を表現するシーンは作中に何度かありますが、その中でも私の印象に残っているシーンが2つあります。

  • 「いってきます」と「いってらっしゃい」

岩手の後ろ戸から常世に入った鈴芽が、椅子から人間に戻った草太と共に戸締まりを行うシーンで、それまでの戸締まりと同じように鈴芽はその地に生きた人々の声を聴きました。それらの声の中では「いってきます」と「いってらっしゃい」が繰り返されていました。「いってきます」と「いってらっしゃい」はこのシーン以外にも作中で何度も交わされている言葉であり、この言葉を印象付けるようなPVやCMもあります。

映画『すずめの戸締まり』【行ってきますPV】 - YouTube

映画『すずめの戸締まり』15秒CM-好きな人編-【11月11日(金)公開】 - YouTube

このように「いってきます」と「いってらっしゃい」が作中キーフレーズの1つとなっている理由は、『新海誠本』の中の監督へのインタビュー記事からわかります。監督がインタビューの中で触れたように、3月11日の朝「いってきます」と言って出かけ、14時46分ごろに起こった「震災」によって命を落とし、「ただいま」を言うことができなかった人々がいます。だからこそ本作は、当たり前に「いってきます」と出かけた日に「ただいま」と帰ってくることの貴重さを、たくさんの「いってきます」と「いってらっしゃい」によって伝えているのではないかと思います。

さらに、「いってらっしゃい」と「いってきます」は鈴芽の立場の変化を象徴する言葉になっているのではないかとも感じました。

鈴芽が戸締まりの際に聴いた、岩手に生きていた人々の「いってらっしゃい」と「いってきます」の中にはきっと、4歳の鈴芽の「いってらっしゃい」と鈴芽の母・椿芽の「いってきます」もあったと思います。一方で、ここ以外のほとんどの場面において鈴芽は「いってきます」を言う側の人物であり、「いってらっしゃい」を言われる側の人物になっています。また、本作の冒頭とラストシーンの鈴芽が自宅の扉に鍵をかける場面においても同様に、17歳の鈴芽は「外に出ていく」人物として描かれていました。

「いってらっしゃい」と言う側の人物が「家の中の人」・「子ども」・「幼さ」・「庇護対象」・「中の世界」を象徴するものとすると、「いってきます」を言う側の人物は「家の外の人」・「大人」・「成熟」・「保護者」・「外の世界」を象徴すると考えられます。このように考えると、4歳の「いってらっしゃい」を言う鈴芽と、17歳の「いってきます」を言う鈴芽は、それぞれ鈴芽の成長前と成長後を象徴する存在だと言えると思います。

作中に多く出てくる「いってらっしゃい」と「いってきます」は、幼く未熟な庇護対象であった鈴芽が、戸締まりの旅で様々な出会いを通して、外の世界を知る大人になっていくという成長を表現するものの1つでした。これに加えて、鈴芽の成長を示すシーンでもう一つ印象に残ったものがありました。

  • 光の中を生きる

常世で出会った4歳の鈴芽と17歳の鈴芽が会話をするシーンにおいて、17歳の鈴芽は「私は、明日の鈴芽」と言い、「あなたは光の中を生きる」と4歳の鈴芽に告げます。さらに「私はすべてもらっていた」というような言葉もありました。この辺りの言葉は抽象的ですが、おそらく「私(鈴芽)は必要な愛情をすべてもらっていた」、「私は決して独りで生きているのではなく、周りの人々がいつも助けてくれている」という意味だと思います。この「周りの人々」というのは、幼い鈴芽を引き取り育てた叔母・環のことであり、「人に見えない場所」で「大切なこと(戸締まり)」をして災害を防いでいる草太のような閉じ師のことであり、鈴芽の日本横断を助けてくれた千果やルミ、芹澤などの登場人物のことであると思います。

戸締まりの旅をしてきた鈴芽は、これまで気づくことができなかった「周りの人々」の存在を知りました。もし草太と出会っておらず戸締まりの旅をすることがなかったら、鈴芽は物語序盤のように「(環さんには)早く姪離れして欲しい」と言う「子ども」のままだったと思います。「子ども」は「親」の愛情に気づくことが困難で、自分が一人で生きているという錯覚をしてしまうことがよくあります。戸締まりの旅をする前の鈴芽も、環の愛情を過保護と捉え、「自分は環の保護がなくても生きていくことができる、独立した人間だ」と考えるごく普通の「子ども」だったと言えます。

「自分は一人でも生きていける、他者の助けは必要ない」と考えていたからこそ、物語序盤から中盤にかけての鈴芽は他者との繋がりを実感することができず、「自分は孤独であり、自分のことを本気で気に掛ける人などいない。環でさえ自分がいるせいで結婚ができず、自分を邪魔だと思っている。」と心のどこかで思っていたと考えられます。そして、この思考が「死ぬことは怖くない」という自暴自棄とも言えるような発言の根幹になっているのだと思います。

しかし戸締まりの旅の中で鈴芽は、鈴芽のことを気にかけ、鈴芽に死んで欲しくないと思う人々(環、草太、千果など)の存在を知り、さらに鈴芽にも死んで欲しくないと思う人(草太)ができました。鈴芽自身が草太に「死んで欲しくない」と思うのと同じように、周りの人々が鈴芽に「死んで欲しくない」と思うことに気付いたからこそ、鈴芽は「死ぬのは怖い」と言えるようになるのだろうと思います。

死を恐れないような聖人的行動が「正しさ」であるなら、死を恐れることは「正しいこと」ではなく「愚か」で「醜い」ことかもしれない。けれど、死を恐れることを肯定し「正しさの先で他者と生きる」方がよほど血の通った人間らしい。

主題歌もそのようなテーマを歌っていたように感じました。

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物語序盤の違和感の解消

物語序盤で「死ぬのが怖くないのか」と聞いた草太に、鈴芽は「死ぬのは怖くない」と言って戸締まりを命懸けで手伝います。このシーンを観ていたとき、私は鈴芽がとんでもない善人に見えました。

もし鈴芽が「出会って間もない人が困っているからただ助けたい」と思っているのだとしたら、それは聖人的な行動で、「一目惚れしたから命を犠牲にしてもその人を手伝いたい」と思っているのだとしたら、それはヒロイン的な行動です。どちらにしても強い善性か執着を持っていないと成立しないな、と思いました。また、鈴芽が要石(ダイジン)を引き抜いたせいで椅子になってしまった草太に深い罪悪感を持っているから旅に同行したという可能性も考えましたが、そのような強い罪悪感を感じさせるほど重苦しい雰囲気もありませんでした。そのため鈴芽のキャラクターは上のどれにも当てはまっていないような気がして、鈴芽の積極的な行動に違和感がありました。

新海誠監督の前作『天気の子』の主人公・帆高も「行動力カンスト主人公」と言われているらしいのですが、帆高の場合はヒロイン・陽菜への想いがわかりやすいので、行動に違和感はありませんでした。一方で、鈴芽は序盤ではそれほど強い想いを草太に持っているようには見えません。

しかしこの違和感のあるように思えた鈴芽の行動は、鈴芽の「自分を気にかける人は誰もいない」という自暴自棄的な思考からくるのだと思うと、とても合理的で自然なものであると納得することができました。

まとめ

『すずめの戸締まり』は九州に住んでいる少女「鈴芽」が椅子になった青年「草太」と共にネコ型神「ダイジン」を追いかけて全国を旅する、少女+異形のロードムービーです。本作では旅での出会いを通して変化した鈴芽の心境がとても丁寧に描かれていました。

死ぬことを恐れない人物が死ぬことを恐れるようになるという構造は、一見すると成長の逆なのでは?と思えるものですが、「自分を助ける他者の存在」を知ることによる成長が表現されていると感じた後は、間違いなく成長物語であると言えるものになっていました。この鈴芽の成長物語の描き方が、私が本作で一番好きなところです。

 

おまけ(アドベントカレンダー参加の経緯)

以下にはアドベントカレンダーに参加した経緯を書きました。ただの自己満足であり映画の感想とは何の関係もありません。

12月に入ってアドカレが始まり、盛り上がってるなあと思っていたのですが、自分には技術系で書けることは何もないし読み専でいいと考えていました。しかし、このアドカレはほとんど学科同期の交換日記みたいなものになっているという話を聞き、さらにアドカレで私の映画感想文を読んでみたいと言ってくれた友人がいたことから、私も参加したいと考え始めました。

最初は「感想文って己の思想が透けるし、読んでくれたとして誰が得をするのかわからないようなことしか書けないし…」とウダウダしていました。でもやはり「読んでみたい」と思ってもらえるのはすごく有難いことだなと思い直し、アドカレに参加することにしました。なので、ほぼその友人宛てに感想文を書いたようなものです。

アドカレの枠を取り記事を書き出したものの感想文を書いたことがほとんどない上、書き始めた時点で本作鑑賞後から2週間が経っていたこともあり、なかなか筆が進みませんでした。まだ書きたいことはあるし、文章は稚拙ですが、なんとか形だけでもアドカレ担当日に間に合わせることができて心底安心しています。

全て稚拙でしたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。また、アドカレに参加されている方、ありがとうございます。お疲れ様でした。